闇色の毛並みの親心(1)
ここは港湾都市シープクレスト。
三方を山に、南側をプレーステール湾に囲まれた貿易の盛んな都市である。
街のちょうど真ん中を走り、プレーステール湾に注ぐバードサングリバー。この川を境に街は新市街と旧市街とに別れ、それぞれ異なる雰囲気の町並みが見られる。
その中瀬に外界から孤立するように立てられた一つの建物がある。塀と何本かの木々に囲まれたこの建物は、元はホテルとして建設されていた。しかし経営難によりホテルは廃業。入るべき人を失くしたこの建物を市が買い取り、以降保安局の一部として使っている。
現在ここを使っているのはシープクレスト保安局刑事調査部第四捜査室である。通称ブルーフェザーと呼ばれるこの部署は、魔物や魔法能力者による犯罪、事件の全般を担当している。このように特殊な事件を扱うことから、この捜査室の保安局員もまた全員が魔法能力者であるという特殊チームである。
かつては保安局の花形部署でもあったブルーフェザーだが、魔物や魔法能力者自体が減少しつつある近年、かつての栄光は地に堕ち、「保安局のお荷物部署」と鼻であしらわれる日々が続いている。ブルーフェザーがかつて花形部署であったことを示すものは、今となってはその通称の由来ともなった、羽をデザインした部署の紋章だけである。
※
時刻は午前10時。
一階の食堂でハト時計が鳴く音が微かに響く中、保安局刑事調査部第四捜査室、通称ブルーフェザーの室長ルシード・アトレーは談話室で新聞を読んでいた。
階段を背にして座り、向かいではフローネとルーティが裁縫をしている。先ほどルーティが新品の枕カバーを引っ掛けて破いてしまったとか言ってフローネに泣きついていたが、それを繕っているのだろう。
(『謎の古代生物発見』?)
新聞一面にデカデカと掲げられた見出しに目を落とす。 ロジャーナ・ダブスとかいう人物がミエーレ山で新種の古代生物の化石を発見したという記事だ。発見された化石は、現在建設中の博物館に贈与されるらしい。
(はー、シープクレストに博物館ができるのか……)
保安学校に通っていたころは考古学もそれなりに学びはしたものの、あくまで単位のためであり、個人的に興味を持つということはなかった。まして、それ以上を自ら進んで探求しようなんて気持ちはさらさらないのであるからして、彼の気が近く開設されるという博物館の方に惹かれるのは当然のことだろう。だが、あくまでも多少気を惹かれるぐらいで完成したらちょっと覗いてみるか程度のことを考え、次のページをめくる。
次のページにもこれといって目ぼしい記事はなく、シープクレストの財政状況がつらつらと記されているだけだった。
仕事柄、街の様子に気を配っておく必要があるとはいえ、こうも代わり映えのしない内容の文面を眺めていると、いい加減『飽き』というものもでてくるわけで。そんな精神のだるさもあいまってか、暖かな日差しを感じ小鳥のさえずりを聞いていると、うつらうつらと船を漕ぎそうになる。 が、実際はそんなことをするわけにもいかなず、ぼーっとしつつもティセの淹れた甘めのコーヒーを口に含み、胸中で呟く。
(平和、だよな……)
こうしていると、つい2週間ほど前に起きた召還獣を巡る街全体をも巻き込んだ大事件が夢か幻だったように思えてくる。
勿論、この2週間何の事件もなかったわけではない。むしろ最近では魔法能力者や魔物の数が増加傾向にあるらしく、以前よりも忙しいほどだ。
だというのにこの平和ボケ。つい一年ほど前までは、この穏やかな雰囲気が苛立たしくてたまらなかったとうのに、今では平和な日常にすっかり溶け込み、好意すら抱くようになっている。
(郷に入りては郷に従えってやつか? いや、この場合住めば都の方が正しいか)
徒然を遮るものがないのも平和な日常ならでわである。
例え作業室側の廊下から「やめろって、所長!」というビセットの怒鳴り声がしたとしても、それはブルーフェザーの日常であるからして……。
「あ?」
と、ここでルシードは「ぎゃー!」だか「うわー!」だか言うビセットの声が次第に近づいてきていることに気がついた。 思えばそちらを向くとき、まだ中身のたっぷり入ったマグカップをテーブルの上に置いたのは不幸中の幸いだったかもしれない。
「うわー! どいてどいてぇ!」
「?!」
その声と眼前に迫ったビセットの姿で状況を理解するも時既に遅く、額に激しい痛みがあったかと思うと押し倒された拍子にソファーの端から滑り落ち、後頭部を強かに打ちつけた。挙句、仰向けに倒れたルシードの腹の上に何かとてつもなく重量のあるものが降ってきたのである。
「ぅ……」
危うく胃の内容物が逆流しかけたが声が漏れただけにとどまり、幸いにして腹の上の重量からもすぐに開放された。しかし頭の前後両方ともを強く打ったせいか、意識が朦朧とし、いまいち目の焦点が合わない。そんな中、ルシードはあの忌々しい茶色の巨大な犬の満足げな鳴き声を確かに聞いた。
「…………」
あまりに突然の出来事に、しばしの間その場に居合わせた全員が何のリアクションも取れずに固まっていたが、いち早く正気を取り戻したフローネが飛び掛らんばかりの勢いでルシードに駆け寄る。
「センパイ! 大丈夫ですか?!」
ようやっと正確な像を結べるようになった眼にフローネの心配そうな顔が映りこむ。
「なんとかな……。あー、くそ、頭いてぇー……。あ?」
上体を起こそうとして妙に下半身が重いことに気づく。 見ると、ルシードの両足の膝から下がソファーの肘掛に引っかかっており、その上にビセットが折り重なるようにして乗っている。ビセットの上半身はソファーの端から垂れ下がり、ちょうどルシードの腹につっぷするような形になっていた。
「おい、ビセット。さっさとどきやがれ」
軽く膝で腹を突き上げてみるが、微かにうめき声を漏らす程度で身じろきすらしない。
「ったく……」
「もー、何やってんのよ。ビセットったら」
力業で押しのけようとしたところで、ルーティにより回収される。しかし回収といっても、ビセットの身体を横に転がしてルシードの、もといソファーの上から落としただけなのだが。
「何なんだこいつは」
立ち上がって、床の上にうつ伏せに寝転がるビセットの頭をつま先で小突く。ビセットはやはりう〜とうめき声を漏らすだけだった。
※
「つまり、所長のプリンをお前が食っちまって、そのことが所長にバレて追いかけまわされてた。で、余所見して逃げてたもんだから俺に気づかずそのまま突っ込んだと、こういうわけか」
足と腕を組みソファーに深く腰掛け正面に座るビセットを睨み付ける。
フローネに額と後頭部の二箇所に氷嚢を当ててもらっているのでいまいち格好が付かず迫力が無いが、ビセットにとってはルシードに睨まれていることが重要であって、彼に氷嚢が付いていようがいまいが大した差は無い。
「はい、その通りでございます……」
すっかり縮み上がったビセットはずっとうつむいてルシードと視線を合わせようとはしない。こめかみにうっすらと汗が滲んでいる。
「たく、食う前に誰のもんか確認ぐらいしろよな」
「したって! 名前も書いてなかったし、ティセとかメルフィに訊いても知らないって言ったんだよ」
「ティセとメルフィが知らない時点でおやつじゃないんだから、食おうとするなよ」
「う、そ、それはそうだけど……。た、食べたいもんは食べたいんだから仕方ないだろ?! うぎゃ!」
ルシードはフローネの手から氷嚢を奪いビセットの顔面目掛けて投げつける。
「アホ、開きなおんな」
ビセットの後ろで所在無げに突っ立ていたルーティが、氷嚢の周りに結露した水滴がかかって顔をしかめたが、ビセットが悪いと思うことにしておく。 後ろでフローネが呆れたようなオーラを発していたが、それもビセットのせいと心の中で一蹴する。
そもそも、どうして何の関係も無い自分が氷嚢を二つも押し当てているのに、ビセットが無傷でいるのか。どうにも納得できない。最初にぶつかったときにお互いの額が合わさったのに、なぜビセットはこぶができるどころか腫れてすらいないのか。
「うぇ〜、冷てぇ〜」
ブルブルと犬のように頭を振って顔に付いた水を飛ばそうとするビセットを横目に見ながら、ルシードは憮然として呟く。
「……まったく、所長も所長だ。あのバカ犬、踏むならビセットだけ踏みゃいい」
『本部より連絡。本部より連絡』
そのとき、ルシードの声に被せるように機械を通したメルフィの声が響いた。
知らず、その場にいた全員がその声に耳をそばだてる。
『第二埠頭に魔物が出現。至急向かってください』
ブツリとスイッチを切る音が聞こえ、それきりブラウン管を通した声が聞こえることはない。
「……説教の続きは帰ってきてからだな」
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