失くしたくない(前編)
気が付くと蔵の前に立っていた。
何千年にも及ぶ玉依の歴史を切々と蓄え続けてきたその蔵は、真っ赤な夕日に照らされ寂しげに佇んでいる。
蔵に近寄るたび、いつも感じていた何人も拒絶するような雰囲気が今はなぜか薄らいでいる。不思議に思い入口を見ると、わずかに扉が開いていた。近づいて扉を押してみる。ギシギシと不気味な音を響かせて開き、独特のかび臭さが鼻をつく。
「……誰?」
夕日に照らされた室内。奥の方に誰かが膝を抱えて座っている。顔はうなだれるように伏せられているのでまったく見えないが、体型は小柄で子供だということは識別できる。服装からして少年だろうか。
「どうかしたの?」
警戒しながらゆっくり歩み寄る。やがて少年のすぐ手前までたどり着いて、緩慢な動作でその場に座る。
覗き込んで様子を窺う。生きているのか不安になるほど少年は身動き一つしない。呼吸をするたび、微かに上下する肩が唯一少年の生を証明していた。
こんなに近くに来て声をかけても反応しないとなると、眠っているのだろうか。ならば、いつまでもこんなところにいさせるわけにはいかない。冬が間近に迫ったこの時期、夜は大分冷え込む。
「ね、こんなところで寝てたら風邪引いちゃうよ?」
少年の腕にそっと手を掛ける。瞬間、パシリと乾いた音が響いた。あまりにも突然の出来事で、一瞬何が起きたのかわからなかった。
宙に浮いたままの手に視線をやって、ああ、手を払いのけられたのかとそこでやっと理解した。
遅れてやってきた鈍い痛みを無視して少年を見る。幼いながらも整った顔立ちをしていた。中でも一際目を引くのが澄んだ翡翠色の瞳だった。瞳は鋭い光を宿し、憎々しげにこちらを睨みつけていた。
その瞳を真正面から見た珠紀は愕然とした。見覚えがある。射抜かれると身動きもできなくなるほど強い意志を持った眼差し。それを見るたび我知らず憧れていた。この人のように強く在りたいと、そう願った。だから間違えるはずがない。自分が見知った姿よりどんなに幼くとも。
「真弘、先輩……」
ほとんど唇を動かさずに発音する。うめき声も同然だった。すぐそばにいる少年にさえ聞こえなかっただろう。
どうしてそんな姿でこんな所にだとか、訊きたいことはたくさんある。けれどそんなことよりも、敵意のこもった目で睨みつけられたことがショックだった。これまでにも睨まれたことは何度かあった。でもそれは、喧嘩の延長線上にあるものだった。こんな風に憎悪をむき出しにして見据えられたことはなくて、何よりもその視線を向けてくるのが真弘であるという事実が酷く悲しかった。
よろよろと立ちあがって数歩後退る。身を守るように片腕で自身を抱きしめうつむく。
「ご……ごめんなさい」
謝りはしたがそれで何が変わるとは思わない。ただ、謝る以外思いつかなかった。
しかしそんな謝罪すら拒絶するように一瞬にして辺りが闇に包まれる。はっとして顔を上げたが遅かった。彼の姿は掻き消え、急いで差し伸ばした自分の腕すら視界にとらえることはできなかった。
「真弘先輩!」
すがるように叫んで腕を伸ばしても手は宙をかくばかり。
「先輩……真弘先輩!」
やがて自身の存在すらも希薄になっていく。闇に体が溶け消えていくようだ。けれと全身に広がる焦りと恐怖は、己の存在が消えることよりも真弘に拒絶されたまま離れ離れになることだった。
「真弘先輩、真弘先輩……」
繰り返し、呪詛のように呟く。すでに身体の感覚はない。
そして意識すらも闇にのまれた。
≫後編
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